命を削りながら打つ将棋。 「村山聖」の生き様、 その迫力が激鬼気迫る。



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「聖の青春」という映画が公開されるという情報は頭の隅に入っていた。しかし、聖という字が「ヒジリ」ではなく「サトシ」であると知り、その原作となる小説を手に取ったのは、この動画が泣けると紹介されていたからだ。



動画で説明されていることはあえて語るまい。ぼくはそのノンフィクションに圧倒された。

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谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ。

 

髪も爪も伸びてくるにはきっと意味があるんです。生きているものを切るのはかわいそうです。

 

僕、今日20歳になったんです。20歳になれて嬉しんです。20歳になれるなんて思っていませんでしたから。

 

僕には夢が二つある。一つは名人になって将棋をやめてのんびりと暮らすこと。もう一つは素敵な恋をして結婚することです。

 

勝つも地獄負けるも地獄。99の悲しみも1つの喜びで忘れられる。人間の本質はそうなのか?人間が悲しみ苦しむために生まれたのだろうか。

 

生きる。

 

どれも、「村山聖」が言うから響く言葉である。生まれつきの難病「ネフローゼ」と闘いながら29歳で癌死した天才棋士である。

幼い頃から病院暮らし。隣のベッドで次々と死んでいく人たちを目の当たりにし、次は自分の番かもしれないと思いながら、「将棋世界」という専門誌をひたすら読んだ。両親は、自由に生きさせてやろう、とそれだけを考えて聖が望む本を渡し続けたという。

外出許可が出たある日、はじめての実践でアマチュアトップクラスの大人たちは息をのんだ。実践経験もないのに、どうしてここまで打てるか、スケールがまるで違うではないか、と。

中学生になると病気を飼いならす体力がついてきて、プロ棋士「森信雄」に弟子入りする。一悶着はあったものの、奨励会に入り、5級から4段まで上がっていく。3年以内に4段まで上り詰めた人は過去に3人のみ。谷川浩司、羽生善治、そして、村山聖。中でも最短の2年11ヶ月というスピード昇格だった。

デビュー後の6連勝を含む12勝1敗という鬼のような強さを4ヶ月で発揮して初年度を終える。「東に天才羽生がいれば、西には怪童村山がいる」伝説が語り継がれる準備はいよいよ整いはじめていた。

同時に、村山聖は「名人になって将棋をやめたい」と公言するようになる。プロである以上勝ち負けがあり、自分が勝つことは相手の未来を殺すこと。髪や爪はもちろん、ダニも殺せなかった村山聖は、その世界に矛盾を覚えはじめたのだ。

そして、羽生との初対戦。羽生が去った後も、村山は動かない。盤面に目を落としながら 「何て、強いんだ。」髪をかきむしり、両手で顔を覆い、もう一度うめいた。「何て、強いんだ。」そして、村山聖は強くなる。強くなる。挫折しながら強くなる。

25歳でトップ10となるA級に昇格。羽生義治との通算成績は6勝7敗。羽生が七冠を手にしたその時代に、である。しかし、聖の将棋は常にネフローゼとの闘いでもあった。症状が悪化しながらも対局を続けていたが、B級に降格。

そして、膀胱癌を併発する。手術を受けた1ヶ月後に対局をしたという話は有名だが、執念とも言える闘いを重ねてA級に返り咲く。しかし、癌が再発した29才に亡くなってしまう。死の直前に、うわ言で「2七銀……」と発したのが最後の言葉となった。

命を削りながら打つ将棋。その生き様に、迫力を感じない者はいないだろう。

詳しくは、動画や「羽生善治に並ぶ天才と称された男・村山聖の生き様は涙なくして語れない!『聖の青春』を読んで」にも詳しい。



「あれから5年 村山聖の偉大さを語るスレ」には、羽生、谷川、郷田など、時代をともにした棋士たちの追悼文が埋もれている。それぞれの視点から、村山聖の人柄が浮かび上がるようで、ますます惜しい人が亡くなったと思わされるが、「うちの師匠は親以上」と村山聖が慕っていた、森信雄の追悼文がまた泣ける。長いのは、それだけ二人の絆が強く、ともに過ごした時間が長いからだ。転載をもって、このエントリを締めくくりたい。

 

昭和57年9月、お母さんに連れられて、関西将棋会館の道場で会ったのが、村山君との初めての出会いだった。ワイシャツの袖をまくり上げ、足元を見ると裸足で、「靴下をはかんとあかんぞ」「この子は冬でもこうなんです」 ネフローゼのせいで、ふっくらしていて、すでに独特の風貌だった。 ひと目みて、弟子にすることに決める。今にして思うと不思議な縁だった。 奨励会入会試験は合格したが、私が師匠になることで、厄介な問題が生じ、結局、自主的に入会を見合わす結果になってしまった。 事情を知らない私の軽率さはあっても、大人の問題で、子供の村山君には関係ないこと。そう説得してまわったが解決できず、悩んだ末に折れてしまったのだ。「なんで、なんで奨励会に入れないの」村山君はワンワン泣き出し、今もこのときの姿が目に浮かぶ。このとき、決意した。「一年待てば堂々と入れるから、私にそれまで責任持ってあずからせて下さい」このときの事はもう過去の事なので、つらかったなあという印象しか残っていないが、それ以上に、村山君との運命的なものを感じる。

私は当時独身で、関西将棋会館の近くに住んでいた。村山君が初めて家に来た日、さっそく盤駒を取り出し、パチンパチンとたたきつけるように棋譜を並べ出した。お母さんに聞くと広島の家でも毎日、「名人になるんだ!」と叫びながら、勉強していたそうだ。「駒音を静かにな」。ある日、私の家で研究会をしていて、学校から帰った村山君と一局指す。横歩取りからの手将棋で、早指しで野性味のある将棋と思った。私の必勝形になった瞬間、王手をうっかり、村山君がさっと私の玉を取った。みんなあっ気に取られ「師匠の玉を取る弟子がいるか」。村山君は狭い机の下にフトンを敷いて、もぐり込んで寝ていた。初めの頃、私が手料理を作ったが、まずくてやめる。一度、食事の片付けで洗いものをさすと、「森先生、手がきれいになりました」。学校から帰るとすぐ連盟道場に行き、私が迎えに行って、食堂で夕食を一緒にしていた。私が夜遅くまで麻雀をしていると、雀荘まで村山君が来て「先に帰って、寝ときや」と言っても待っていた。子供の頃から病院生活が長かったせいか、ひとりで寝るのをさみしがっていたようだ。ある晩、40度近い熱が出た。氷で冷やすのだが、「森先生、今、何度ありますか?」「うん、39度やなあ、大丈夫か」しばらくして「今何度ですか。42度になったら、僕死にます」体温計をみると、41度を超えていたが、「うん、40度やなあ」とごまかした。朝方、熱が引いた。一度、散髪に行かないので、髪の毛をつかんで引っ張っていったことがある。泣きながら抵抗したが、これに凝りたのか、たまに行くようになった。二人とも風呂が苦手、顔を洗わない、歯を磨かなくても平気、奇妙な同居生活だった。会館ですれ違うと、村山君が私を見て「まずい」と姿をかくし、何でもないのに「こらっ」が二人のあいさつだった。とても愛敬があって、人気者だった。体調のことは、いつも油断できなかったが、いつのまにか弟子以上のものを感じるようになった気がする。

一年たち、奨励会入会試験も無事にクリアし、やっと村山君の棋士人生がスタートした。奨励会に入り、休むことが多かったが成績は抜群で、どんどん昇級していった。病院から奨励会に出たこともある。そんなときは、広島からお母さんが来て、身の回りの世話をしていたが、たまに交代で私が病院に行き、いやがる村山君のパンツを洗濯したこともあった。少女漫画を頼まれ、大阪まで、探し回ったこともあるが、血生臭いのはきらっていた。爪を伸ばし放題だったのも、「伸びてくるものを切るのはかわいそうだから」、やさしさと慈しみの気持ちの表れだったと思う。子供の頃、入院生活の病棟で、死んでいく子を何人も何人も見て育ったことも、村山君の人を見る目、人生を見透かす目を養ったのではないかと思える。
村山君の症状をめぐり、御両親、主治医の先生と、常にどういう判断をして、どう選択していくか、その話し合いの繰り返しだった。そして何より本人が、病気で制約された自らの人生をどう切り開いていくか、闘いと葛藤の毎日だったかもしれない。今年の5月、ガンが再発して入院したとき、一切を伏せていた。病室の名札もかけず、電話も、外でしていたそうである。誰にも知らせるな、死去の際も密葬にするようにと、毎日のように言っていたらしい。師匠にも知らせるなと聞いたとき、ちょっぴりつらかったが、村山君に何か考えがあってのことだろうと従うことにした。御両親も迷っただろうが、ある日、電話で再発のことを知らされ、ショックを受けた。食べてもすぐ吐き、40度の熱が出る日が続いた。痛みに耐え、薬にも頼らず、自分のからだで治そうという強い意志で、ガンと闘った。今年一年休場して、来期にかける目論見は無残に村山君を引き裂いた。40日間、放射線の治療を受けた甲斐もむなしく、転移した。私は村山君にはもちろん内緒で、御両親からときどき、症状を聞くことにしていた。そして、辛抱強く待った甲斐あって、仕事のついでにさりげなく立ち寄れば、という同意を得て、時期をみていた。村山君を裏切らないようにと思いつつ、早く見舞って顔をみたいの気持ちだった。

平成10年8月8日、家から「村山君のお母さんから、さとし、もう駄目なんです」の知らせがあり、広島に向かう。電車の中の聞き取りにくい携帯電話が鳴って、訃報を聞いた。間に合わなかった。広島駅で出迎えてくれたお兄さんの車で、平安祭典に向かう。村山君はフトンの中で寝ているようだった。ふるえと悲しみが交錯して、白布に手がさわれず、泣きくずれるよりなかった。まるいほっぺにさわると、今にも起き出しそうで夢を見ているようだった。鼻の頭に汗が一滴あって、ただ眠っているとしか思えなかった。家族ではないけど、お通夜に出させてもらった。お父さんは「毎晩、毎晩、さとしと一緒にいる時間が、こんなに多かったのは初めてです。この子は病院の生活ばかりだった」。ひとりでいる時間が長かったなあ、村山君、つらかったけど、よく頑張ったなあ……。お経を聞いている間、涙が止まり、静かな気持ちになった。
8月9日、午前11時、お葬式にも出させてもらう。昨晩、御両親と村山君の遺影の写真を一緒に選んだ。テレかくしの伏し目がち、ネクタイがずれ曲がっている、いつもの格好だ。凛凛しい表情の一枚を捜した。最後のお別れで、村山君にいっぱいの花を添えているときお父さんが「足の爪も伸び放題で……」となでてあげていた。遺髪を切ろうとしたとき、御両親が泣きくずれた。「さとし君、よく頑張ったね」。からだを蝕んだ悪魔ももういない。悔しいけど、これから静かな時間でゆっくり休んでな、村山君。脱水症状、腸閉塞、最後まで痛みに耐え、病気と闘い、復帰する執念を捨てなかった。痛みがひどくなり、医者がたずねると、ようやく「うん」とうなずいたそうである。点滴に薬を入れると、急に飛び上がるように「これは何?おかしい」と言ったそうだ。症状が悪化しても、ずっと意識があったが、眠るように意識不明になっていった。最後のうわ言で、「○○○、○○○、2七銀」と将棋の駒を符号で、二言、三言、話してつぶやいたと言う。

平成10年、8月8日、午後零時11分、村山聖は永眠した。「満29歳の若さでしたが、その倍以上の人生を凝縮して生きてきたと、私たち家族は信じています。今まで本当に有り難うございました」お父さんの言葉である。私は村山君との人生との関わりで、どれだけ彼を理解していただろう。とっても幼くかわいい面と、物事や人の心の奥を見透す、洞察のすごさの二面性が村山君にはあった。子供が好きで、やさしかった。「師匠は弱いですから」と、あまり一緒に飲んだことはないが、酒も麻雀も強かった。純粋さからくる一本気なところもあったが、常に村山流の理詰めの考えによるもので、納得させられ、すべて任せていた。村山君が、真っ白いお骨になっても、近くにいる、まだ遠くにいっていない気がしてならない。帰りの車で別れ際、お兄さんが「さとしはいつも覚悟はしてたんですけど、復帰するつもりでした。最後まで、復帰することをあきらめてなかったんです」。死んでも、村山君はいつも私のそばにいる、そう思うと、さみしくはない。村山聖は汚れのない生をまっとうした。戒智山聖英居士、さようなら。