この小さな劇場では毎日のように、お笑いライブが開催されてきた。劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ。(火花/又吉直樹)
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
そんな言葉からはじまった小説「火花」。タレント小説だと思うなよ、という牽制だろうか。筆致をつくして紡がれるこの数行でぐっと引き込まれた。導入だけじゃない。情景描写がとにかくうまい。
夜中に大勢の若手芸人が集められる。狭い待合室に詰めこまれ、汚い服を身に纏った若者達は皆一様に腹を減らし、眼だけを鈍く光らせていた。その光景は華やかさとは無縁の有象無象が、泥濘に頭まで浸かる奇怪な絵図のようだった。
渋谷駅前は幾つかの巨大スクリーンから流れる音が激突しては混合し、それに押し潰されないよう道を行く一人一人が引き連れている音もまた巨大なため、街全体が大声で叫んでいるように感じられた。
この小さな劇場では毎日のように、お笑いライブが開催されてきた。劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ。
林真理子のデビュー作が自身のコピーライターという職業に深く関わっていたように、半自伝的な小説こそが、ベテラン作家と戦える唯一の武器。その上で、又吉さんは漫才師(芸人)。その小説にはもうひとつの武器があった。「会話劇」だ。漫才を書くことと、小説を書くこと、その共通点をうまく見出している点が新しかった。
もうひとつ印象に残ったのは、師弟関係にあるふたりのメールのやりとり。そこには、ラジオネームのような締め言葉が必ずある。実際に又吉さんも、芸人同士で鍛錬の意味を込めてやっていたのだろう。たとえば、こんな感じ。ぼくも誰かにメールするときにマネしていこうと思う。
カノン進行のお経
三畳一間に詰め込まれた救世主
バックドロップbyマザーテレサ
エジソンが発明したのは闇
聖なる万引き
それにしても、芸人さんは人をよく観察してる。コピーライターもそうあらねばならぬ、と学ばせてもらった意味でも本当に素晴らしい作品でした。最後の「花火」のシーンについては書きませんが、最高のカタルシス。大好きな小説ができました。
・黒目をギュウと収縮させて「おい、びっくりするから急にボケんな、
・誰もが圧倒的な花火を引き摺っていた。
・人前で初めて語る話か、語り慣れた話かが、話す速度と表情でわかった。
・耳を澄ますと花火のような耳鳴りがして、次の電柱まで少しだけ走った。
・頭の中には膨大なイメージが渦巻いているのに、それを取り出そうとすると言葉は液体のように崩れ落ちて捉まえることが出来ない。
・人々は年末と同じ肉体のまま新年の表情で歩いていて
・東京には、全員他人の夜がある
・こういう時、想像力というのは自分に対する圧倒的な暴力となる
・つらいという言葉や概念を理解しても、つらいことの強度は減らない
・神谷さんは両手をポケットに突っ込んで、足の裏を地面に擦りつけるようにゆっくりと進んだ。僕達は、ほとんどすべての信号に引っかかっていた。