オール五症候群



「僕は昔から自分を退屈な人間だと思ってきた」と彼は言った。「ほんの小さな頃から僕は羽目を外せない子供だった。いつも枠のようなものが自分のまわりに見えて、そこからはみださないように気をつけて生きていた。いつも目の前にガイドラインみたいなのが見えるんだ。親切な高速道路みたいなものさ。なんとか方面は右車線に寄れ、この先カーブあり、追い越し禁止、とかね。その指示の通りにしたがっていればちゃんとうまくいくんだ。何でも。そうやっていればみんなが褒めてくれた。みんなが感心してくれた。小さい頃は僕と同じように他のみんなにもそういうのが見えているんだろうと思っていた。でもそのうちにそうじゃないことがわかった」

 

村上春樹の短編にあった一説だ。僕にとってそれは、脳の統制を無視して自分の口が勝手にペラペラと話し出したかと思うくらいに自分事だった。手足を縛られて、ガラスの向こう側にいる白衣の男たちがスイッチを押す。すると、口が勝手に自白を始める、そんな感じだ。決して自分では止められない。一度タンクに穴が開くと、中の水をすべて吐き出し切るまで止まらないみたいに。あるいは、顔を洗って顔を上げると、その鏡に映る自分が勝手に語りだしたかのようでもあった。と、文体まで引っ張られてしまうよね、氏の文章って。それはさておき、村上春樹の文章は次のように続く。

 

「僕の人生というのは、少なくとも最初の部分はということだけれど、そういう意味ではとてもスムーズなものだった。問題らしい問題は何もなかった。でもそのかわり僕には自分の生きている意味みたいなものがうまくつかめなかった。成長するにしたがって、そういうもやもやとした思いはどんどん強くなっていった。自分が何を求めているのか、それがわからないんだ。オール五症候群だ。つまりね、数学もできる、英語もできる、体育もできる、何でもできる。親も褒めてくれる、教師も問題ないと言う、良い大学にも入れる。でも自分はいったい何に向いているのか、自分は何をやりたいのか、それがわからないんだ。大学の学部だって何を選べばいいのか自分ではさっぱりわからなかった。法科にいくべきか、工学部にいくべきか、あるいは医学部にいくべきか。何だって良かったんだ。何だってちゃんとできたと思う。でもこれっていうのがないんだ。だから親と教師の言うまま東大の法科に進んだ。それがいちばん妥当と言われたからだ。はっきりとした指針というものがないんだ。」

 

ここまで読んで、ようやく「彼の文章を読んでいる自分」という感覚が帰って来た。主人公が自分ではなく、自分に似た人になった。双子の人生が、年を経るにつれ少しずつズレが生じていくように、僕と物語の人物はやはり別人だった。

 

僕の場合、「オール五症候群」は高校入学とともにすっかり消えてしまった。成績はクラス最下位。しかも数学は0点連発という虐殺めいた壊滅っぷりに、人には得意不得意があること、もっと言えば好き嫌いがあること、という「あきらめ」に似た境地を知った。僕は、自分の意思で数学を「拒否」したのだ。それはもう正義の国のお姫様のようにきっぱりと(そうでも思わなければやっていけなかった)。

 

挫折も、悪いことばかりではない。おかげで、僕ははっきりと自分の道を選ぶことができた。もうオール五である必要はない。東大にも行けない。自分が好きだと思えるものにすがるしかない。それが、言葉であり、コピーだった。数学的な分野とはまったく逆の。何だって良いなんて思わない。コピーライターじゃなきゃダメなんだ、と早くから気付けたことは本当によかったと今でも僕は思うのです。